焼き餃子のぶろぐ

人生変えられたド新規スト担が、主にSixTONESについて気ままに語るブログです。HiHi Jetsについても語ることもあります。

矢花くんへ vol.3

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こんばんは。水曜深夜の恒例になってきましたね。

6/2の矢花くんのブログへのアンサーブログです。

全国の矢花黎さん、たまたまここに辿り着いた皆様、お暇な時に読んでいただけると嬉しいです。

 

 

 

 

 

 

とりあえずさ!

まずは喜んでいいですか!?

私、前回のブログの最後に矢花くんの考えを聞きたいテーマをいくつか書いたんですが、その中の1つが「運命は存在すると思いますか?」でした。

ということはつまり!

 

願いが1つ叶いました🎊✨

 

聞きたいって言ったテーマについて語っていただいたので、今回も喜んでアンサーブログを書いております。

うれしい。このブログを矢花くんは読んでくれているのだろうか。

矢花くん、今手振ってみてもらってもいいですか?(茶番)

 

 

 

とまあこんな話はここらでおしまいにして、ブログの内容について触れていきますね。

 

 

サクッと読める明るい近況をひとまずサクッと読みました。

矢花くん、良い刺激をくれる後輩に出会えてよかったですね!

私も所属しているサークルに後輩が入ってきてくれました。

中高は運動部でいつも嫌われる指導役をやっていたので、仲の良い後輩は片手で足りるほどしかいませんでしたが、大学のサークルはほのぼのとしてるので私も穏やかに新たな人間関係を構築していきたいなと思います。

人とつながるというのは良いものですね。

 

 

 

 

さて、本題。

本日のテーマは「運命」について。

 

自分で聞いておきながら、このテーマについて自分の考えをまとめたことがなかったので、例の如く矢花くんのブログを受けて動き出した脳みそから直接書く。

 

 

運命を信じるか否か。

結論から言うと、私は運命を信じる。

ただ、正確には「信じる」とは感覚的にズレがある。

そのあたりを含めて、私の中の「運命」というものについて、つらつらと書いていこうと思う。

 

 

そもそも運命って何?

ってことで、3つの国語辞典で「運命」と引いてみた。

共通していたのは「人間の意志によらない」ということ。

これを掘り下げると厄介そうなので、ぼんやり頭の片隅に入れて進む。

 

 

私の中で「運命」とは、「受け止めきれない現実を受け入れるためのもの」だ。

 

受け止めきれない現実には、良いものもあれば悪いものもある。

現実を現実として即座に認識できるならば、運命などと言う必要もない。

 

だが、生きていると受け止めきれない現実に出会うことがある。

そんな時に、現実を受け止めきれずにいつまでも立ち止まったままではいけない。

その現実を受け入れて、前に進まなければならない。

受け止めきれないほどのものを受け入れるのは、容易ではない。

だから私は、「運命」に任せてしまうことにしている。

 

先述したように運命にお任せするためには、多少の努力は必要だと思っていて。

その努力は、何かを成し遂げるための努力だったり、それこそ受け止めきれない現実を受け入れようとする努力だったりする。

 

例えば、全く勉強せずに大学受験をして不合格になったとする。

努力をして、それでも届かなかったなら、それはそういう運命だったということ。

でも努力をせずに届かなかったなら、それは運命ではなく必然。

運命なんて言って逃げるんじゃねえって話になる。

 

もうひとつ例え話を。

大事な試合の直前に骨折したとする。

試合に出られないという受け止め難い現実を受け入れるための努力をしたなら、もうそれ以上苦しまないで運命に丸投げしても良いだろう。ということだ。

(ちなみにこれは半分は私の実体験。実際には大事な試合の直前に指を骨折して、ドクターストップがかかったものの顧問に半ば脅されて練習もしたし普通にフルで試合に出た。その結果悪化して手術を余儀なくされた。こんなもんは運命じゃないです。)

 

 

 

だらだら書いてきたが、矢花くんの「結果的に運命」という言葉が、私の結論にもなるかもしれない。

私も後悔しないように生きているので、後悔するくらいなら運命さんにお任せしちゃおう!と思ってる。

 

 

面白いもので、描いていた未来なんて簡単に塗り替えられる。

 

私は根っからの文系だが、いろいろあって大学では理系の専攻にいる。

その「いろいろ」の中にはいくつもの選択があって、自分で決めて自分の意志でここにいる。

 

でも、理系を志すきっかけになった出来事は私が選び取ったものではないし、センター試験でとんでもない点数を叩き出したにも関わらず第一志望の大学に合格したことは、お世話になった高校の先生全員に「絶対落ちたと思った」と言われたくらい自分も含めて信じられないことだった。

嬉しいことだったけど、信じられなくて、しばらく現実だと思えなかった。

でも、この道を選んで、苦しみながらも努力したのは嘘じゃない。

だったら「運命」ってことにして、進み続けることにした方がよっぽど良い。

 

 

私も矢花くんと同じで、「運命」というものを都合よく使っている。

これが「信じる」とは感覚的なズレがあることの要因かと思う。

 

運命は、信じる信じないではなくて、事実としていつもそこにある。

辞書によると運命は人の意志によらないものらしいが、事実を運命とするか否かを決めるのは結局その人自身なのではないかと思う。

 

存在している現実を「運命」とする。

そうすることで、人はより幸せを感じたり、苦しみを軽減させたり、前に進んでいけるのではないか。

そんな風に思った。

 

 

 

 

と、ここまでだらだらと運命について書いてきたが、ぶっちゃけ私は「運命」より「なるようになる」という言葉の方をよく使う。

意味は似たようなものかもしれないけれど。

私は、「なるようになる」の精神で、日々選択を繰り返している。

 

これが伝わるのかわからないけど、私の中では「なるようになる」を積み重ねた軌跡が「運命」。

 

どんな風に過ごしたって先には必ず「明日」があるように、私は、人生の全てはなるようにしかならないと考えている。

それでも努力はするし、できれば楽しい毎日を過ごしたいと思っている。

 

なるようにしかならない日々を、「なるようになる」と思って過ごすことで、たどってきた道のりが「運命」と呼ぶに値するものになるんじゃないかなぁ、と。

 

 

 

こんなところで、今回はおしまいにします。

 

 

 

 

 

今回は我ながら酷い文章になっている気がします。

頭の中のイメージを適切な言葉に変換して引き出すことができませんでした。

が、とりあえず。今はこれで。

また良い言葉が生まれたら届けますね。

 

矢花くん、今週も頭を使わせてくれてありがとう!

矢花くんの文章、私はとても好きです。

考えていることも興味深い。

だからこれからも、書きたいことを好きに書いてくださいね。

また来週!