焼き餃子のぶろぐ

人生変えられたド新規スト担が、主にSixTONESについて気ままに語るブログです。HiHi Jetsについても語ることもあります。

矢花くんへ vol.2

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こんにちは。(この記事の公開は真夜中ですが)

今回は矢花くんのブログへのアンサーブログ第2弾でございます。

ま〜〜た面白いテーマを授けてくれたものですから、今回も矢花くんに届けるべく書きますよ。

全国の矢花黎さんは是非読んでくださいね。

 

 

 

 

 

てなわけで、今回のテーマは「人の面」

 

まずは乖離の話からしよう。

「自己像」と「理想像」の乖離に苦しむという矢花くんの気持ちに納得と共感をした。

もちろん一般人である私のそれとは規模感やズレの大きさも全く異なるであろうことは想像に難くないが、裏を返せばこんな一般人でも他者からの「理想像」に苦しむことはあるということ。

私の場合は小学生の時だった。

 

自分で言うのもなんだが、小学生の頃の私は授業を真面目に受けていて成績も優秀だったし、友達も多かったし、学級長のようなものを推薦で任されるような生徒だった。

家庭訪問では、毎年同じことを言われた。

「本当にしっかり者で、真面目で、頼りになって、なんでも自分で出来てしまう手のかからない子です。」

と。

 

でも私は、そんなよく出来た子どもじゃなかった。

登校中に思いっきり転けて膝が血まみれになった時は「保健室が嫌いだから」という理由だけで血まみれのまま1日過ごそうとしたし(流石に途中で友達に気づかれて保健室に連れて行かれた)、集団登校で使う黄色い旗で勝手に遊んで持ち手部分を破壊したこともあるし(そのまま黙って元の場所に返した)、休み時間にアマガエルを何匹か捕まえて校舎内に放ったこともあるし(割と大騒ぎになった)

 

そんなことを知らないから、私のことをしっかり者だの真面目だのと言えるだけ。

しっかりしてないし不真面目な側面も持ち合わせているのに、毎年かけられる「しっかり者で真面目で頼りになる優秀な生徒」というプレッシャー。

大人の理想とする私でいなければならないと思い込み、大人の前では良い子でいる「私」という人間が出来上がった。

 

「私はそんな人間じゃない」という心の叫びは、繰り返すうちに薄れていく。

求められていた理想像が自己像との境目を失い始めた時、いろいろなことがどうでもよくなった。

その瞬間から、少しずつ今の考え方になっていったように思う。

 

 

 

私の今の考え方は、「人や環境によって変わる自分を受け入れる」というもの。

矢花くんの言葉で言えば、「複数ある“自分の面”を認める」ということ。

 

私は自分の面が何面あるか、正直わからない。

どこからが面なのか、その定義によっても多少数は変動するとは思う。

自分だけが知る面、家での面、大学での面、SNSでの面、バイト先での面…

さらに細分化して、母親に対する面、父親に対する面、友達に対する面、先輩に対する面…

と、それはもう細かく大量に存在するのが私の面だ。

 

昔からよく耳にした、「人によって態度を変えること=悪」という方程式。

思えば私は昔から、人間関係で面倒なことになりたくないと思って人によって面を変えてきた。

そしてそれは「態度を変えている」とみなされ、陰口の対象となることもあった。

 

でも、今、改めて思う。

「自分の面」を使い分けることの、何が悪いのかと。

面の使い分けは、生きていく上で大なり小なりみんなしていることではないか。

生まれたての赤ん坊とヤクザの親玉に同じ面で接することができる人がいるなら話は別だが。

 

いくつ面があってもいいし、使い分けてもいい。

目の前にいる相手の「理想の面」をつけることが苦しくないのなら、それ以外の誰かの「理想の面」、もっと言えば「自分の思う真の自分の面」とは違っても、迷いなくその面を使えばいい。と思う。

 

だから私には、多分、出会う人の数だけ「自分の面」が存在している。

全く同じ面を使うことはおそらくない。

Aという複数の人間がいる環境の中でaという面を使うこと(他者からは私はaのように見えている)はあるかもしれないが、Aという環境から離れてそこにいた人たちと個別に接する時には、私はaという面を使わない。

 

矢花くん。

これが、私にとっての「自分の面」というものです。

どうでしょうか。(どうでしょうかとは。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここまで書いて、ふと考えた。

そもそも、本当の「私」って、どれ?

 

 

矢花くんのブログから外れてる気がするが、この際だから書く。矢花くん、なんかごめんなさい。興味があったら読んでください。

 

 

 

先述した通り、私は無数の面を使い分けて生きている。

じゃあ、本当の「私」って、一体どの面の時に存在してるんだろう。

そう考えた時、背筋がゾクっとした。

 

結論を先に書くと、「わからない」のだ。

「本当の私」というものの定義がどうしたってできないから、どれが「本当の私」の面なのか決めようがない。

ある意味、無意味な問い。

でも矢花くんの言葉を借りると、「分かっていても、悩むものは悩む」。まさにこれ。

 

 

自分1人でいる時の「私」も私だし、家族といる時の「私」も私だ。

大学にいる「私」も私、バイト先にいる「私」も私、SNS上の「私」も私。

全部、私。

(そろそろ「私」がゲシュタルト崩壊してきたが、続ける。)

 

全ての要素があって私という人間の生活が存在している以上、どれかひとつの「私」を取ってきて「これが本当の私だ!」と言うことはできない。

例えば自分1人でいる時の「私」を「本当の私」としてしまうと、家族でいる時の「私」は一体何処のどいつだ?ということになってしまう。

 

つまり、私という一個体は、何やら複雑に「私」というものが絡み合って成り立っているものらしい。

だからこそ、私は自分の持つ沢山の面を否定したくないわけだ。

私をつくる沢山の「私」、そのどれもが大切な要素。

(ややこしくなってきたけど、この感覚他の人にわかってもらえるんかな。)

 

 

コロナ禍で気づいたことの一つに、この「私」という面たちの関わりの面白さがある。

現在大学2年生、19歳。

全ての「私」に共通しているのは多分これだけ。

 

コロナウイルスの影響で、2年目に突入した大学生活のほとんどはオンライン。

同専攻の人の顔もよくわからないレベル。

こうなってくると、SNS上の知り合いとほとんど差はない。

 

それでも私は、「○○大学の学生である私」と「このブログの主であるSNS上の私」には明確な線引きをしている。

顔を知らないからと言ってSNS上の人格で大学の人と話をすることはないし、SNS上の人格の中身が○○大学のこういう名前の人間ですよ〜と無闇矢鱈と言うつもりもない。

 

しかしながら、どちらの「私」も私であり、この2つの「私」が関わりあうことで私はこの2年弱生きてこられた。

 

大学生の顔があるから、SNS上の人格が少しばかり形を持った。

SNS上の人格があるから、大学生としての「私」は孤独にならずに済んだ。

どちらかだけではダメだった。

 

もちろん、こういった「自分の面」同士の関わり合いを俯瞰で見て、面白いなと感じている「私」もいる。

 

 

生きていると、いろいろなことがある。

その時々で呼吸しやすい「面」は変わる。

大学生の「私」が孤独で苦しかった時、SNS上の「私」が出会った人たちに助けてもらったように。

でも、その呼吸しやすい面だけでは生きていけない。

 

生きるためには「自分の面」を総動員する必要がある。

どれか一つだけでは、少なくとも私は生きていけない。

私の中の沢山の「私」の面たちが、互いに支え合いながら存在してくれているから、私は今日も私として生きていられるのだと思う。

 

 

 

 

 

かなり長くなってしまったけど、ざっとまとめると、

 

私が思う「私」も、誰かが理想とする「私」も、どっちも大切にできたら良い

 

かな。

 

 

矢花くんは職業柄、人よりも自己像と理想像の乖離に苦しんでいるのだろうと想像しますが、私は、どちらかがどちらかに無理矢理合わせにいく必要はないと思っています。

かく言う私も、知らず知らずのうちに「理想の矢花黎像」を作り上げているのかもしれない。

その理想が矢花黎本体に迷惑をかけることは許されないけれど、私が矢花黎という人の全てを知ることは不可能(というかそれは多分矢花くん本人にも不可能だと思う)だから、結局どこかで多少の「理想像」を描くことになると思います。

 

自己像と理想像を近づけることが苦でないならば何も言いませんが、私はアイドルという特殊な職業に就いている人には特に、「自分だけの自分」を大切にしていてほしいなあと願っています。

 

何が本当の自分かもわからないような人間ですので、これからもフラットに「矢花黎」という人を見ていたいな。

と、そんなことを考えたところで、今回はおしまいにします。

 

途中から脳みそから直接言葉を垂れ流しにしたような感じになってしまいましたが、今回も楽しい時間になりました。

矢花くん、ありがとう!

 

 

 

 

p.s.  矢花くんの考えを聞きたいテーマをいくつか書いておきます。

・「幸せ」とは何か

・幸せがあるから不幸があるのか、不幸があるから幸せがあるのか

・「努力は報われる」という言葉をどう捉えるか

・人間が人間である意味は何か

・運命は存在すると思うか

・自分の人生を俯瞰で見ることはあるか(私は時々、自分の人生をものさし的に見ることがあります)